一般社団法人 鹿沼歯科医師会の沿革
本会で最初に歯科診療を始めたのは、鹿沼町久我出身の小野重三郎である。小野は、午前4時頃起床し鶴田町の宇都宮中学迄徒歩で毎日通学、卒業後東京歯科医専で学んだ後、学説試験、開業実地試験合格後、明治36年5月26日免状を得て鹿沼1699番地に開業した。明治39年栃木県歯科医師会設立に尽力し、その後宇都宮、下都賀郡石橋町に移転した後、大正8年県歯会長に就任している。
本会の名の由来である上都賀郡は、明治11年に都賀郡が上下に分離され、明治22年4月、市町村制が実施されたとき99町村あった、戦後多くは鹿沼市、日光市、今市市となり現在は西方町、足尾町(現日光氏)、粟野町(現鹿沼市)を含む地域である。
大正2年になると駒橋寅春が鹿沼町1638番地に開業すると、大正14年までに入会順に岡本英忠、新島貫一、市川政一、大越筆、中条正左衛門、金子弁明、青木達三郎、甲田賢二以上鹿沼、安生貢(南押原村)等が続々入会開業した。そして鹿沼町の会員が中心となり、日光の橋口近義、山本千代松今市、湯沢菊四郎、和知氏等と共に郡歯科医師会の設立を準備し、大正14年4月19日、郡役所楼上(鹿沼)において上都賀郡歯科医師会発会式および総会が開かれた。同年岡本英忠が97票得票し鹿沼町議となった。
大正15年「歯科医師会令」が交付され、公法人としての新栃木県歯科医師会が設立された。県内の会員数は168名、当時鹿沼町の人口は20452人であった。本会から昭和20年の終戦迄、岡本英忠、金子弁明、新島貫一が県歯理事を歴任した。
大正15年から昭和3年迄、小杉眞治(粟野)、新川庄一(鹿沼)、手塚筆四郎(鹿沼)、天谷準作(粟野)が開業した。
世界大恐慌で生糸価格が崩落した昭和4年東武日光線が全線開通、新しい物好きの8名(鹿沼)が早速東武電車に乗って沿線の下都賀郡の太平山にピクニックに出かけている。
昭和6年満州事変、昭和8年中田静嘉(西方)、9年茂呂登(鹿沼)10年菅沼清(粟野)が開業、日中戦争が勃発した昭和12年に県歯で支部設置が認められた。
昭和13年初代支部長に金子弁明が選ばれた。その年石川権左衛門(南押原)が開業、太平洋戦争が始まった昭和16年岡本大七が7ヶ月在籍して応召され、帰らぬ人となった。戦局が拡大するなか同年11月菊地貞造(鹿沼)が開業、昭和17年鈴木幸雄(磯町)、18年新島剛、中条正臣、19年福島茂(鹿沼)が入会した。昭和20年7月か沼町も空爆を受けたが中心市街地は焼失を免れた。そして昭和20年8月15日終戦を迎えた。鈴木、福島は戦地に赴き終戦後帰国した。
戦後、福田利示が疎開(帰郷)、川島信四郎、光五郎(北押原村)、梅沢明(菊沢村)、越路考七(鹿沼)、坂口孝(帝国製麻株式会社内診療所)、手塚操、畑二郎、村本光、石塚要次郎(以上鹿沼)、鰕原悦郎(粟野)、岸野シゲ、村川ふさ、駒橋秀光、金子弁明(以上鹿沼)、石田酉三(西方村)、矢口修(南摩村)、今井一郎(粟野)などが開業入会してきた。
上都賀郡には大企業として、足尾町に古河鉱業株式会社足尾鉱業所、日光町に古河電気工業株式会社日光電機精銅所、そして鹿沼町に帝国製麻株式会社鹿沼工場があった。
帝国製麻は大正末より昭和初期の不況対策として人員整理があったとはいえ、昭和3年末でも従業員数は872人で500人以上おり、健康保険組合強制設立の適用を受ける事業所であった。その為に本会と帝麻工場との診療契約については毎年締結しなければならなかった。
大正初期には日本麻糸株式会社、東洋麻糸株式会社が設立された。これらの会社と補綴関連の契約や保険診療の治療費などの歯科診療に関して20年位にもわたって毎年話し合いがもたれたことが記録にたくさん残されている。
記録とは本会に保存されている大正14年1月25日から記された日記のようなノートで、毎年2名の当番幹事(今の庶務、会計)が交代で引き継がれてきた貴重な資料のことである。
昭和21年11月3日日本国憲法交付、22年10月GHQの指令で社会法人栃木県歯科医師会が設立され、初代支部長に茂呂登が就任した。茂呂は昭和21年7月の鹿沼町議補選に出馬し、当選以来昭和39年没するまで18年間議員生活を送り、支部長を3年間県歯副会長を8年6ヶ月つとめた。支部県歯の会務に大いに貢献した。
鹿沼町は昭和23年10月市制がしかれた後、昭和29年10月一市七村合併、翌30年7月一市二村が合併し、大鹿沼市が誕生、総人口は80771人となった。これに伴い県歯に於いても保健所単位の支部制を施行し、上都賀支部と今市支部に分離された。
支部長は分離する前、青木達、新島貫、金子弁が勤めた。分離後、福島茂、福田利、駒橋寅が各2年間、手塚筆が4年間、青木達、越路孝が2年間、菊地貞が10年間、新島剛、岡本全宏、瓦井昭二が各9年間、平成18年佐川徹三にその職が引き継がれている。
本会においては昭和20年代、金やプロカインなどの配給、厚生省の監査の嵐、昭和30年代、全国一斉休診、鹿沼地区の学校担当医の当番の輪番制(円盤)の確立、昭和40年代、県歯会館建設、保険医総辞退、昭和50年代、学校歯科医グループ検診に伴う校医手当ての会費プール制の制定、昭和60年代、上都賀支部一丸となって解決して来た。現在は校医手当てのプール制が確立され、70歳以上の会員には毎年慰労金が支給されている。また年一回その方々をお招きして「藹々会」を開催している。
平成25年4月1日法人化に伴い、名称を「一般社団法人 鹿沼歯科医師会」に変更する。
平成26年4月現在で会員数は58名である。